人にやさしく

 愛は弱さの感覚と切り離せず、守ってやりたいという願いや、大切にして喜ばせたいという熱意とも切り離せない。無私の心が必要とまでは言わないが、仮に利己的な思いがあっても、その思いは驚くほど見事に身を潜めるものだ。それに、愛にはある種の気後れが付きまとう。(…)愛はのめり込むことでもある。恋に落ちたとき、人は自分を見失う。いかに先を見通せる人でも、この愛がいつか終わるとは-頭ではわかっていても-とても実感できない。常々幻影だと思っていたものが、恋をした瞬間に実体を備え、人は幻影だと知りつつも、それを現実より重んじる。愛は人を等身大より少し大きくし、同時に少し小さくする。恋をする人はもはや自分自身ではない。一人の人間ではなく物、自我とは関係ないある目的を達成するための道具となる。どのような愛のも感傷が入り込む。(…)愛とは取りつかれることでもある。(…)

 だが、愛という情熱をどのようなものととらえるかは、結局、人それぞれだ。その人の個性や癖に従ったとらえ方になる。(…)

『月と六ペンス』、サマセット・モーム、209頁

 

 

 

 ひとは人生でどれくらい恋をするのかと考える。そして失恋の傷によってひとは本当に強くなるのかということも同時に考える。

 

 『月と六ペンス』を読んでいたら、上に引用したような箇所があって、考え込んでしまった。

 

 愛別離苦愛する人との別れは苦しい。それがあまりにもつらいからこそ、自分はこういう風に得意でもない文章を綴って、それを必死に和らげようとしている。ナイーヴだなあと思う。ラッパーのkid fresinoは、何かのインタビューで、そういうものは、SNSに発信するのではなく心の中にしまっておこうぜ、そのくらいの強さを持とうぜというようなことを言っていた気がする。

 

 

 

 恋愛が上手く進んでいるときは、すべてが上手くゆく。全くその通り。そして失恋すると、その幸福だった時期に想いを馳せる。その決して長くはなく、短い時期に。

 

 彼女とのふれあいは少なかった。はたから見れば、全然無かったかもしれない。だから、その人を喚起させる思い出のような物—映画や音楽や場所や匂いなど—が少ない。これはやはりさびしい。まったく無いわけじゃないけれど。付き合ってからはじめて遊ぶというそのスタートラインに立つ前に、やはりフィーリングが合わないと言われてしまった(これはネット恋愛ではないし、会ったこともある。会ったのは少ないけれど。しかし、一目惚れだったり、LINEの連絡が1分以内に返ってくるような気の合い方をすれば、夢中にもなるだろう。実際、話題が尽きることは無かった)。

 

 

 顔と顔を付き合わせて話す、そこからその人の体温や感覚などを感じる、話し方や身振りを知るという人との付き合いにおいて基本的なことがあまりにも少なかったし、LINEという文字だけのメディアのやりとりがメインだったからこそこのような事態が起きてしまったのだろう。

 ラインで話した内容をすべて会って話していたら状況は異なっていたと思う。その人を目の前にしていたら、その想像力が大幅に行きすぎることもないのに、文字だけだから考えるといろいろ止まらなくなるのかな。

 

 

 もちろん電話をして、声の「温度」を知ったり、テレビ電話でまじまじと顔を見ることもした。便利な世の中だね。しかしケータイでは絶対に欠落するものがある。

 

 彼女は優しさと残酷さ(最終的にね)が表裏一体となっているような人だった。わたしもひさしぶりに恋人ができて舞い上がっていた。かつて自分が一方的に別れを告げたことを思っては、酷いことしたもんだと深く反省し、次の人には、これまで映画や小説などで培ってきた(と思っている)人間力的なものを総動員しようと思っていたし、実際にした。

 その人が疲れていたらできるだけ丁寧に気遣い、大変そうなときは応援した。バイトが終われば労いの言葉をぜったいにかけて、来たる逢瀬のことや温泉旅行のことを話し合ってはお互いにそれをモチベーションとして日々を過ごしてきた。起きたら「おはよう」と言う。基本的なこと、それをとても大事にした。たまに雑になった時もあったけれど、彼女もとても有難がってくれた。だからこそ付き合うこともできた(と思う)。そのような最低限LINEでできることはしてきたと思う。たぶん。

 

 そしてなによりも彼女がとても優しいからこそ、自分もより優しい気持ちになって接することができたと思う。「わたしじゃなかったらめちゃいい彼氏さんよほんと」と言われたときに違う!と思ったのは以上の理由からで、あなたのおかげなんですと思った。そしてそのように全力で人を好きになるのはもう無理かもしれないとも思った。恋はとても単純で、とても複雑だ。瞬間瞬間ではとても楽しいのに、「恋愛とは何か」を考えると答えなんか出るわけもなく、モヤモヤしてしまう。

   

 彼女の全部が好きだったし、とりわけ目が好きだった。彼女の目は特別だと思う。

 

 フラれた理由はあまりにも残酷なので、ここには書かないけれども、自分の人生の中で最もつらい恋愛だったと思う。しがみつきたくもなる。だって、それはズルイよ!っていう理由だからね。無理なものはもう無理、みたいな。

 もちろん当然この事情を知らない人は、どうせ1、2ヶ月の恋愛なんてたかが知れていると思うに違いない。しかし交際の期間なんか関係ない。

 

 顔と顔を付き合わせて話す、そこからその人特有の「体温」を知る。このケータイでは必ず欠落する必要不可欠な段階を経る前に別れを告げられるのが心残り。まあ本来ならば、そういうのは付き合う前にしっかりするんだけれどね。しかし付き合ったのだから、少なくともフィーリングは合っていたと思うし、これからお互い知っていこうというお互いの姿勢だったと思う。好きだというのは言葉よりも行動や態度で示されるべきで、LINEや電話では無理がある。

 

 偶然の出会いとは手垢のついた表現だけれども、「ある人間」に会ったら、もはや以前には戻れないということはあると思う。わたしは彼女の中に「感性」の共通性を見た。もちろん音楽の好みとか違うところも多々ある。そういうのじゃなくて、なんというかもし一緒にいたら同じようにものを見るだろうなあとか、なんかそういうの。うまく言えない。

 

 なんとなしに存在を否定された気もしなくもない。かつてこうだったから、この先もこうだろうと決めつけられた感じ。文字だけのやりとりで顔と顔を付き合わせた回数が少ないからこそ。その目をじっくりのぞき込んで、その奥にあるものを感じなければならない。

 

 このような体験を耐えてきている周りの知らない人々を改めてすごいと思う。わたし以上の大失恋を味わって涙を流しながら、ひたすら耐えて、耐えて、耐え忍んだ人もいるに違いない。すごいなあ、よく耐えたなあと。

 

 もっとも自分が味わったこの失恋をその人たちと比べて相対化しようという気はさらさらない。わたしは現代的な個人主義者なので、この失恋を自分に固有のものだと思っている。そして悲嘆に暮れている。その権利もある。そして彼女とは異なって、それを打ち明ける人もあまりいない。

 

 この文章は今しか書けない。ついに1週間後か1ヶ月後か、あるいはもっと後に立ち直れた時には、これを再び読み直して自分でも鼻で笑うに違いない。ナイーヴな、あまりにナイーヴな恋愛だと思う。自分でも可笑しくなってしまう。「おはよう」の一言が無くなっただけで毎朝がツライ。

 

 「縁がなかった」という文句は便利だなあと思う。割り切り方としては上品だ。縁があれば、再びヨリを戻すかもしれない。しかし、そんなことは神のみぞ知るだ。幸福だった「現在」こそがすべてであったから、この突然の別れはとても堪えられなかった。遊ぶために帰省したからね。

 

 最初の問いの答えではないにしても、失恋すれば、少なくとも自分は強くなれない。再び同じような恋をして、同じように夢中になって、別れるかもしれないし、続くかもしれない。これは過去から学ばないのとはちょっと違う。

 

 失恋したからこそ、人に優しくできるのかもしれない。その人の過去を想像すること。それを推し量ることによって、より優しくなれるのかもしれない。

 

 最後に彼女にはも感謝しています。

 

付記)

 それにしても、やはり一緒になにかしたいという願望が強い。カフェや公園で話したり、映画を観たり、音楽に耳を傾けたり、、、素朴にそういうことをしたかったなあ。